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坐禅をするときは、自己を中心として坐禅をしてはならんのです。 それを本当にやめて、六根を開放して、六根の作用がどうあろうとも一切かまわずに、一々の、その時その時の作用のままに、煩悩らしい作用が起きようと立派そうなのが起きようと放っておくことです。 その生じたり滅したりするそれ自体が、あなたの手つかずの真相なんです。 それですから安心して、ただ、そういうような働きの真相のそのままに注意していてご覧なさい。 そうすると本当に何にもないところから生じながら、直にそれと離れて、その事実が自分に完全に備わっていることが手に入るんです。 工夫は只だ、人我の見を離る、見を離るるの機要、 内、虚にして、外、事あるのみ。 これ、人我を離るるの道、これ坐禅の玄旨なり。 即処生涯也、渾身是法也。ただ、この自覚を要するのみ。 即処本来の面目也、但だ一度、命根を断ぜん事を要す。 今人も古人も、四大は同じ四大ならずや、 何れの時代なりとも志あらば、何人といえども必ず徹するものなり、 疑うことなかれ。 ほかに云うこともやることもない。只、今の消息だけです。 それだから、もう方法も手段も尽きて尽き果てた、今の自分の様子だけでいいじゃないか。 それで初めて「本源自性天真仏」としての自分が、そこへ転がり出ておる。 それにお目にかかってくればいい、それだけじゃ。 それは、意識のなかに自己を忘ずることであって、意識をなくする事ではない。 意識自体が純意識体自身であるとき、自体が自体を知ることはできない。 主体が主体を知ることもできぬところに、意識の主体すらも消滅する。 眼が眼を見ることができぬ様に。 この確実かつ純粋なる道に徹するとき、無明は断絶する。 それは、識自体が識以前の純然たる法体性の事実に証せられて、 意識の及び難きものなることを正しく得たとき、 この生活自体が法身であることを自得するからである。 このとき、疑いようも信じようもない。 その必要も全くなく、その欲求すらも起こらないものである。 それでは皆さん、今の瞬間を御覧なさい。 皆さんの実質的な生活といえば、今の瞬間しかないでしょう。 その時に、次の瞬間に、この身の上に何が起こってくるか予期できますか。 次に起こることが分かりますか。 事実はこのように....カッ(打卓) 音が出てくるとゴロッとそうなってしまう。 どういう訳ですか。 どういう訳で皆さん、そうならなくてはならんのですか。 “このもの”は不思議な自我なき存在者なのです。 そう云う素晴らしい自由な自分の真相を本当に撤見して戴きたい。 ◆ 井上義衍老師『玄魯隨聞記』『夢想1〜6集』(竜泉寺参禅道場発行 0534-34-0935 各¥2,000)などから抜粋し、要約しました。 |